評価★★★★★
2年前に定年退社した会社OBがmixiのレビューで絶賛していたので、山本周五郎「さぶ」「樅の木は残った」に感動した私は、また感動できるかなと期待して読んだ。
「柳橋物語」
江戸時代の江戸・神田茅町。杉田屋という大工の棟梁の屋敷の隣に住む髪結い床の娘、おせん。両親をなくし、祖父と二人でつつましく生活している彼女は、杉田屋に修行に来ている若い職人、庄吉と幸太に気に入られている。庄吉は口ぶりの優しい、真面目な青年。幸太は口は悪いが有能な青年。ある日、杉田屋棟梁の跡取りに幸太が決まることとなると庄吉は「幸太をともに働きたくはない。屋敷を出て大阪で働くから5年待って欲しい」とおせんに告白する。突然、プロポーズされたおせんは庄吉の誠実さに惹かれ、その場で「待ってる」と答える。庄吉が出て行くと、今度は幸太が徐々にいい寄ってくる。おせんは庄吉を待つ身であり、はっきり断るも、庄吉からは手紙が一度来ただけで、その手紙には「帰るまで返事してくるな」との言葉もある。そんな折、江戸に大火が起こり、おせんは足腰の弱くなった祖父と一緒に古い家屋に留まったまま、火に包まれていく。必死で救い出してくれたのは幸太。彼は自分の身も杉田屋の事情も顧みず、祖父を背負って救い出そうとする。しかしながら火はおせんと幸太らの行き先々にもやってきて、逃げられない。神田川のそばで必死に二人に水を与える幸太。しかもながら、祖父は憔悴して命を落とし、さらに水を汲んでこようとした幸太も疲れ果てて川の流れに飲み込まれて命を落とす。おせんは記憶をなくしてしまう。
正直、おせんの不幸には言葉をなくす。私がもっと若かったならば、かわいそうでかわいそうで読んでられないだろう。
「むかしも今も」
同じく江戸。幼いときに両親に死なれた直吉は、親戚に育てられるも叔母のいじめにあい、その後、知り合いの指物師に預けれる。老舗の大きな指物屋で丁稚奉公としても真面目に働くも、職人らに愚鈍扱いを受けている。ただ、そこの娘、まきだけは彼になついている。そして数年がたち、病床に臥し、死を悟った親方は直吉を呼び、お前をまきの旦那にしてやって店を譲りたかったが、まきは店に修行にきている清次という坊ちゃんに惚れている。あきらめて二人を支えてやってくれ」と懇願される。息も絶え絶えの親方に懇願されて断れるはずもない直吉。ただ清次は博打好きで、彼が二度と博打をしないよう、後見をしてくれとも頼まれる。そして親方は死んで、物語は当然のこと清次が再び博打を始める方向に展開していく。
これもすばらしい。ってか、巻末の解説にあるように、これは先の「柳橋物語」にて愛が実らなかっ幸太の恋が、直吉によって実現されているかのようである。直吉は真面目で自己抑制的、義理堅く、一途であるが、そうした性格は時に読者によってステレオタイプに受け取られる懸念があるが、「柳橋物語」が先にあることでによって、読者はおせんの不幸が後世で救われたように感じるのではないか。まあ、物語の筋自体はよくあるものだとは思うが、それを上回って山本周五郎という作家の独特の文体は実に情緒的でいい。私にとっては武家ものの「樅の木は残った」よりも、下町の人情ものの方が好きだ。「さぶ」と並ぶ最高傑作ではないか。
評価★★★
元々は1940年に米国、日本では1978年に日本ブリタニカから刊行され、世界各国で読み継がれてきた読書法に関するマニュアル書。現在は1997年より講談社学術文庫から刊行されている。
まず始めに、読書の意味を提示することから始まり、読書のレベルを4段階にわけ、第一レベルである初級読書から始まり、点検読書、分析読書をへて、最終レベルではシントロピカル読書まで説明し、読者がこんど本を読むときから読書が有意義なものとなるようにいざなっていく。ただし、小説や戯曲、詩には当てはまらない。
初級読書というのは子供が文章をようやく読み取れるというレベルで、「まだ一人前の読者とはいえない」レベルである。
点検読書からが重要で、このレベルでは、組織的な拾い読みができる段階であり、そのために必要なことは何かが明示される。一つはタイトルをちゃんと見て、序文を読んで著者の執筆目的・意図を確かめ、索引や目次をしっかり読んで構成を推察・理解する読書法が提示される。そうすれば拾い読み、速読ができるようになり、時間をかけて読む価値があるかどうかが分かるようになる。
分析読書では、タイトルの言葉を分析し、何についての本か、しっかり連想する。索引や目次を分析して、プロットを理解する(プロット以外はエピソードに過ぎない)。プロットを理解して読み進めると、章ごとのアウトラインが見えてくる。そして、頻繁に使われる言葉はまさにキーワードであることも理解していくが、通常、それらは著者が何らかの意図をもった言葉であることが多く、著者と折り合いが付かないものである。得てして重要な言葉は意味の分からない言葉なのだ。また、それら頻繁に出てくる言葉を含む文章はキーセンテンスなのだ。
シントロピカル読書は、同一主題について二つ以上の書物を比較読書することである。
という具合だ。最後、巻末の外山滋比古の解説がおもしろい。彼によれば、「日本の文化が巨大な美よりも箱庭的な美が好まれる結果、本も短い作品が好まれる。古事記から方丈記、徒然草から現代小説まで、みんな短編である。その結果、理解もセンテンス単位でパラグラフは蔑ろにされやすい。センテンスごとでは叙情的になり、論理的な読み方ができにくくなる」。あー、なるほどパラグラフではなくセンテンスばかりになったから論理的じゃない、って素晴らしい指摘だと思う。さらに彼は「翻訳文化の流入以降、本は難読を強いるものと相場が決まり、悪文を読みこなすことが知的とされ、曖昧な表現も含蓄にとんだものとされ、積極的に行間を読み、悪文を喜ぶようになた。結果、本を速く読んだりすることは抵抗を感じ、本は精読するものとされている。理解が足りないのは読者の問題、いったん読み始めたら最後まで読通すべき、というのが主流の考え方になってしまった」とも語る。私もいまだに精読への強制観念から抜けきれていないw。

評価★★★
原作は、ギャグ漫画「稲中卓球部」で著名な古谷実の漫画「ヒミズ」。ヒミズとはモグラの仲間、ひっそり目立たず、普通に生きていたいという主人公の気持ちから名付けられた。
舞台は震災直後の茨城県。主人公の男子中学生、住田祐一(染谷将太)は、池の湖畔にぽつんと立つ貸しボート屋の息子で、母親と二人住んでいる。決して風光明媚とは言えない小さな池にボートを借りにくるのは薄汚れた釣り客か、時間を持て余したカップルくらい。ボート屋の周囲にはホームレスたちが居を構え、周囲の景観を更に薄汚れたものにしている。当然ボート屋が儲かるわけがなく、母と子の生活はカスカスだ。義務教育とはいえ、学校に通えているのが不思議なくらい。そんな主人公スミダに友達と言えるような同級生はおらず、ボート屋のそばのブルーシートのホームレスが友人の役目を果たしている。スミダに父親はいるが、金にだらしのないチンピラ風の男で、家を出て行ったものの、しょっちゅう金がなくなってボート屋に小金をせびりにくる。母はそのたびに逃げ出し、父親と対峙するのはスミダである。父親は実の息子スミダに向かって会うたびに「おめえはいらねんだよ、死んでくれ。保険金が入るから」とのたまい、殴る蹴るの暴力をふるう。母親は母親で父親と変わらぬ人非人のクズぶりを発揮、息子のいる家に間男を連れ込んできても平気なのだ。スミダはそうした親子関係、生活が今すぐにどうにかなるわけではない所与のものとして冷静に受け止めている。学校では担任教師が「誰でも一つだけの花なんだ。夢を持て」と先生にありがちの常套句で生徒に語りかけてくるが、そうした先生の言葉にスミダは「夢を持たないと駄目なのか」と無表情に反論し、オレは中学卒業したらボート屋で働き、つつましくも大過なく平和に生きていく喜びを持っていると主張する。もちろん虚勢である(スミダはそう主張しつつも、自己承認の問題に悩み、絶望的な自分の人生から這い出したい希望の裏返しとして主張しているに過ぎない)。そんなスミダの本音は知らずとも、少なくとも他の中学生とは一風変わった考え方をし、孤独に人生を生きようとするスミダの姿に恋をする同級生の女の子、茶沢さんこと茶沢景子(二階堂ふみ)。彼女はスミダに好意を寄せるが、スミダは当然振り払おうとする。それでも彼女は元気よく明朗にスミダに付いていこうとする。スミダに「付いてくるな、帰れ」と主人公に何度も否定されても、まるでストーカーのように彼をつきまとい、しつこ過ぎてスミダから殴られても殴り返すほどの向こうっ気の強さで追いかけていく。ただ、そんなそんな暗澹たる生活が続く中、父親が暴力団から多額の借金をしていることが原因で、スミダと茶沢さんの関係はホームレスを巻き込む形で、狂気の満ちた展開に発展していく。
正直いって、メディアでの高い評価ほどに面白いとは思わなかった。もちろん、園子温の作品は、前作「恋の罪」もそうだったが、近年のテレビドラマに象徴される練り込まれていない筋立て、マーケティングが先行した飽き飽きするようなキャスティングばかりの邦画に比べると暴力やエロティシズムに潜む狂気、その背景となる社会風景をしっかり認識し、極端とも言えるほどの人間の愛憎劇で表現できる才能を見せてくれる。園子温の映画は他の邦画に比べれば異色で、秀逸であるのは間違いない。でもやっぱり深みがない。最初、震災直後の被災地の悲惨な情景を映し込むシーンから始まるが、ストーリーに被災地はほとんど関係がない。暴力シーンや台詞は過激だが、それと主人公の自己承認問題を結びつけるプロットがベタ(普通)過ぎる。ホームレスたちの演技は過剰であり、園子温監督の新妻である元グラビアアイドルの女優、神楽坂恵はまったく不要である。終盤、なんだか既視感があるなーと思ったら、ふと、これはドストエフスキー「罪と罰」そのもの、主人公スミダはラスコーリニコフで彼女はソーニャであると気付いた頃からの展開は良くなった(後で調べたけど、原作者の古谷実自身が「罪と罰」を意識していたそうだ)が、それまではずっと何が面白いんだろうと感じ続けていた。
ただし、主人公の二人を演じた、染谷将太と二階堂ふみは、とてもみずみずしく、かつ自然で、とても良かった。二人とも2011年のベネチア国際映画祭で新人俳優賞であるマルチェロマストロヤンニ賞を受けている。

評価★★
vidonews.comで高い評価を受けていたこともあり、あと個人的に宗教をテーマとした物語が好きなことから興味が湧いて、渋谷のイメージフォーラムに観に行った。主役は、「サガン」のシルヴュー・テステュー。
フランスとスペインの国境のピレネー山脈ふもとにあるカトリック教会の巡礼地で、聖母マリアが現れたと言われて以来過去に何度も奇跡を起こしてきた村として年間600万人以上の巡礼観光客・患者が訪れるルルド。本映画は、全身が動かない不治の病を患った主人公がルルドでの短期療養ツアーに参加し、祈りを捧げながら奇跡を求めていく物語。とはいえ、わらにもすがる気持ちでルルドに訪れる患者は今なお多く、累計1億人を超える人々が訪れてきた長い歴史の中で公式に奇跡と認定された人はたった67人しかいない。「奇跡を授かった」と教会に申請した人は過去に7000人前後いるらしいが、厳しい審査を受けて公式認定されたのはわずかなのだ。村にいる神父も、どうしたら奇跡が起こるのかと尋ねてくる巡礼者への対処法を分かっており、「神に懸命に祈ったからといって奇跡がおこるとは限らない。結局、奇跡を決めるのは神の自由意思なのだ」と諭す。当然、科学的見地から普通に考えれば奇跡など起こりえない。そうした現実もあるせいか、患者や来訪者の中には半信半疑で療養を受けているもの、冷やかしに来る観光客も多い。村で働く若い介護従事者たちも、当初の動機こそ誠実かもしれないが、結局は同僚との恋愛ごとに心奪われて、患者への対応もなおざりだ。そんな中、主人公クリスティーヌにツアー最終日、奇跡が起こる。深夜、寝ているときにふと目が覚めると、自分ひとりで体を起こし、ベッドから立ち上がって鏡の前まで歩くことができたのだ。奇跡に喜ぶ母、神父や関係者たち。一方で、同じツアーの参加者の中には、「そんなに敬虔でもないくせになぜ彼女に起きて私の娘には起きないのか」として嫉妬を表情に出すもの、「またすぐ元に戻るわよ」と奇跡を信じないものも出てくる。そこから本映画のテーマは、彼女の回復は一時的なものなのか、本当に奇跡なのか。奇跡だとすれば、どうして彼女に奇跡が起きたのか、に収斂していく。
しかしながら、それら疑問への答えは最後まで暗示すらされない。観るものに考えさせるような終わり方と言っていいだろう。だから、本映画がハッピーエンドなのかバッドエンドなのかも不明瞭である。どちらかというと、自分の幸福に対して他人というものはかくも不寛容なものかと、人間のどうしようもない性(さが)を見せつけれて終わったようで、私はどうも釈然とせず映画館を出ることになった。

評価★★★★★
カナダ人監督ドゥニ・ビルヌーブ監督の映画。レバノン内戦に着想を得たレバノン系カナダ人劇作家ワジティ・ムアワッドの戯曲を映画化したもの。途中までは中東の複雑な民族・宗教問題をテーマとした社会派のノンフィクションのように展開していくが、あくまで親と子の秘密を巡るミステリーで、カナダ映画界の賞を総なめにしている。
子供にさえ心を開かず謎めいた形で死んでいった母親の遺言に従い、自身の父と兄を探し始める若き双子の姉弟。母親ナワルはもともと中東レバノンの出身で複雑な人生を隠してシングルマザーとしてカナダに移住してきたため、父親と兄の存在すら聞かされておらず、いったいどこで何をしているかも分からない。姉弟は遺言や資料を元に手がかりを探してレバノン、そして母の生家などを赴ねていくが、そこで母がキリスト教徒とイスラム教徒が互いに殺し合う壮絶なレバノン内戦に巻き込まれ、愛する人や家族ら多くの人を失い、自身も受けてきた壮絶な人生を知ることになる。
レバノンはキリスト教徒が中心になって作られた国であり、第一次大戦後はフランスの植民地であり、フランス語を話す人も多い。ただ、第二次大戦後に独立した後は、周辺諸国で中東戦争が勃発する中、キリスト教徒とPLO(イスラム教徒)の対立が激化、1975年より内戦化する。本映画はその時代、内戦化の直前にイスラム教徒の男性と恋をしたキリスト教徒ナワルが子供を産むも異教徒との結婚を許さない家族や村の意向で父は殺され、子供とは離ればなれにさせられる。ここからのあらすじはミステリーのネタバレになるので割愛するが、内戦の悲惨さ、痛切さがこれでもかこれでもかとあらわになっていく展開から目が離せなくなる。
とはいえ、冒頭書いたように本映画は単に民族・宗教問題をテーマにしたものではなく、その時代を歩んできた女性ナワルの一生を追った物語である。もちろん、エンディングはハッピーエンドではない。ただ、苦しいだけのバッドエンドでもない。最後は、席から立ち上がれなくなるほどのインパクトで、いまだに消化しきれず、このエントリも自分ではまったく不十分だと思っている。昨年のナンバーワンであることは間違いない。